まちまるごと植物園

「まちまるごと植物園」とは

「まちまるごと植物園」とは?

「まちまるごと植物園」とは、植物学者・牧野富太郎博士のふるさと佐川町で、町民が行っている植物に関わる活動を町全体で植物園に見立てて、植物を通じて人々がつながりあう“植物のまち”を目指した取り組みです。

町民みんなで「育てる」を楽しむ

  • 牧野富太郎牧野 富太郎(1862~1957)

 文久2(1862)年4月24日、後に「日本植物分類学の父」と称された牧野富太郎博士は、土佐国高岡郡佐川村(現在の佐川町)に産声を上げました。幼名は成太郎。時代は幕末、かの坂本龍馬が土佐を脱藩して一ヶ月後のことです。
 生家は「岸屋」という造り酒屋を営む裕福な商家でした。幼い頃に父、母、祖父を次々に亡くし、富太郎は大切な跡取り息子として祖母・浪子の手で育てられました。
 幼少期は体が弱かった富太郎ですが、近所の山や金峰神社によく足を運び、植物を集めたりして楽しんだといいます。そうして豊かな自然に囲まれ、富太郎は植物への興味を育んでいきました。
 10歳頃には寺子屋に通いはじめ、次いで伊藤蘭林(佐川で著名な学者)の私塾や名教館で当時の先端学問を学びます。その後、名教館の廃校にともない新設された小学校に入学しましたが、授業内容は容易で物足りず、ほどなくして自主退学します。
 ここから富太郎は、植物採集をしたり、書物で調べたりと、独学で植物の知識を身につけていきます。専門書籍やさらには植物を論じ合える人物との出会いもあり、植物研究への思いが一層高まっていきました。

  • 牧野富太郎

 22歳で二度目の上京をした際、東京大学理学部植物学教室への出入りが許され、以後は東京と高知を行き来しながら植物分類学の研究に打ち込みます。
 そうした中、25歳で友人らと共に、日本初の植物の学術雑誌となる「植物学雑誌」を創刊します。そして2年後、この雑誌の中で大久保三郎と共に新種ヤマトグサに学名を付け発表しました。これは、記念すべき日本国内で初となる新種の学名発表でした。
 富太郎は「日本のすべての植物を明らかにする」という想いのもと、さまざまな植物誌の刊行を手がけていきます。26歳で手がけた『日本植物志図篇』は、内容から印刷まで富太郎が心血を注ぎこだわりぬいて作り上げ、周囲からの賞賛を大いに集めました。富太郎自身も「日本の植物誌を初めて打ち立てた」と自負するものとなりました。
 そして38歳の時に刊行を始めた『大日本植物志』は、徹底した観察眼に加え、他の追随を許さぬ精密さ、描画力、構成力など、まさに究極ともいえる植物図が描かれ、富太郎の代表作となりました。富太郎が手がけた植物図は現在でも世界的に高い評価を得ています。

  • 牧野富太郎

 植物知識の普及の面でも富太郎の存在は大きなものとなりました。78歳で富太郎は自身の植物研究と教育普及の集大成ともいえる『牧野日本植物図鑑』を刊行します。この図鑑をはじめ次々に出版される植物随筆は、学者だけではなく一般人も植物を調べ楽しむ手助けになりました。また各地の講演会や観察会では、自らの豊富な植物知識を惜しみなく与え、植物を知ることのおもしろさ、大切さを一般に広く伝え、全国に多くの植物愛好家を育てました。またそれは、富太郎の植物研究のネットワークにも活かされていきました。富太郎の足跡は今も全国各地で見ることが出来ます。
 一途に植物を愛し、追い続けた94年の生涯において、富太郎が学名を発表した植物は1500種類以上、収集した標本は約40万枚といわれ、蔵書は4万5千冊を超えます。その数のいずれもが個人では到底成しえない数といえるでしょう。
 多くの人々に愛された牧野富太郎は、故郷・佐川町の牧野公園に分骨され埋葬されています。お墓の横には、富太郎がこよなく愛したバイカオウレンの群生が拡がり、毎年早春に可憐な花を咲かせています。

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